(昨日の続き) 授業を休む学生が多いことに対するミジンコの主張も、言うだけは言わせてもらおう。
プライベートとパブリックは区別する必要がある。プライベートな自己主張を許される場でするのは結構なことだが、パブリックなお約束事の場で、その主張が必ずしも通るとは限らない。個人レッスンで自分の休んだぶんを、別の日に教師が補講をするというプライベート間での契約になっているのなら、それでも良い。補講契約がないとするなら、自らの学ぶ権利を放棄しているだけのことになる(教師が特別な努力をしない限り、生徒の休む量が増えれば、それに伴い中味が徐々に薄くなっていく)。補講契約をしていない教師1対生徒複数の集合教育では、生徒が自らだけの権利だけを主張する論理は成り立たない(でも教師が厚意でしてくれる場合もあるが、勘違いはして欲しくない)。
 
試験ができれば良いでしょうと言われるかもしれない。私も賛成だ。しかし、そうはならない。できていなければ不可にすれば良いとも言われる。私も、その自己責任論に賛成だ。しかし、それをすると、かなり控えめに言っても半分以上が不可になる。それでは単に振るい落しをしているだけに見えるので、総論は賛成だが各論ではやむなく別の措置をする。だって、やはり学生はお客さんだもの。どんな業界だって、自己中でわがままなお客さんはいるだろう。お客さんに不満を言うようになったら、それは不幸なことだ。私自身、まずいサイクルに入っているなと感じている。
そもそも論としては、教師の授業(商品・サービス)が(顧客にとって)魅力的でないのでしょうとも言われるだろう。若者に理解ある外部の人なら必ずそう言うだろう。私もそうだとは思うし、当事者としての非力は認めるのだが、力不足でできていないのが現状だ。出口の見つからない暗路に迷い込んでいて虚無感がある。
定年前に教育の場を職を辞そうかなと思慮している最大の理由の一つはこれだ。一方、私自身はエネルギーが有り余っている。自分のことを一通り処理した上で、更に十分な余裕がある。そのエネルギーは、それこそ「コスパ」のよい場に活路を見出したい。その意味では、若者の転職行動の発想と同じである。
 
*** 3m以上もあるドドナエア 実も終わりかけ、一部枯れてきた

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